汚泥の底日誌

文章力向上と自分の書きたいことを書き殴るためのブログです。

第819回 感動はするけど涙が出ない

常日頃からお世話になっております。

ケンロクエンです。

 

おかげさまで第819回です。

 

漫画にアニメ、ゲームに小説、ドラマに映画に現実に……日々さまざまな物事で心動かされて生きている我々人間ですが、その感情の揺れ動きの先にある「泣く」という行為に至ることが俺の場合ないんです。

無論誰しもが作品を見て泣くわけでは無いことは百も承知……なのですが、最近は色んな作品で「泣ける」が当たり前のように宣伝文句として乱舞し、感想などを見ても「泣ける」「泣けた」「泣いた」などという言葉が当たり前に飛び交い、感動のあまり語彙力が低下してしまっている素敵な体験をした人や、万人に伝わるわかりやすい語句として「泣ける」を選ぶのは理解できるのですが、もはや「泣ける」は常套句。

結構名の知れたであろうライターさんや、コアやニッチな層ばかりが見るであろう書籍にも当たり前のように「泣ける」が並ぶこの現代。

「泣ける」映画ランキングとか、「泣く」ならこの映画!みたいな特集も当たり前のように組まれ、もう映画見たいのか泣きたいのか目的がわからなくなるんですよ。

 

とまあここまで当たり前のように泣くことがクローズアップされると考えてしまうのが、泣けない俺は異常なんじゃないか?という疑問。

 

わかってます、わかってますよ!

もう数年行ってないので最近はわかりませんが、映画館で話題の「泣ける」映画を見てもマジで泣いているのは全体の中では少数派ですし、そもそもの「泣ける」というのも本当に滂沱の涙を流すわけではなく「泣ける(くらい感動できる)」であることは!

 

でも映画のCMとかでは実際に試写会や上映の後にドバドバ涙を流す人を映しますし、「泣いた」を多用する人は往々にして「ティッシュが空になるくらい〜」とか「目が真っ赤に〜」と実際に涙を流したことを声高に謳いますよね。

それが悪いことではない!

感動が自身の制御を超えて溢れ出ることは素晴らしいことですので、本当に涙が流れ出て来た人は大いに泣くべきです。

 

良くないのはこの実際に「泣いた」人と「泣いた(と表現していいくらい感動した)」人をごっちゃにして宣伝する側!

これ良くないと思うんですよね。

 

言うなればネット上で「草」とか「www」とか打ち込んでいる人でも実際に大爆笑しているわけではない時があるわけじゃないですか。

例えば「草(とコメントするくらいに面白かったです!また面白いこと期待していますね!それでは寒さ等にお気をつけて健やかにお過ごしくださいね!お疲れ様でした!ありがとう!)」と実際に大爆笑しながら息も絶え絶えに「草」とコメントするのは文面上同じであってもその本質は異なるわけですよ。

 

それを映像とかで本当に「泣いた」人も感情表現の一環として「泣いた」人も全部一緒くたにするのは良くないと思うんですよ。

 

公式とか宣伝する側が「泣ける」を多用するの、やめにしませんか?

「泣ける」かどうかは受け手に担うべきですし、いざ涙が出なかったときに「面白かったけど泣けるかと言われると……」ってしこりを残すことになるんですよね。

そして俺のように「泣けないっていけないことなのかな?」と変に引っかかる人が出てきてしまうんですよ。

 

本当に「泣ける」作品ができた!と思ったら「あ〜これは泣けるわ〜見たら絶対見たら泣いちゃうだろうなぁ〜ていうか泣けないとかどうかしてるわ〜(チラッチラッ)」みたいなプロモーションじゃなくて「お前、泣かすから」くらいガッツリ正面から来て欲しいですね!

 

ブログの感想、お題、ネタなどありましたら下記フォーム、「汚泥の投げ入れ箱」

 


https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdpLCbstEQRq4NFUrZib1ij9Ij-OmTVIymYWfzvjbItm7aFsQ/viewform

 


までお送りください。

また、記事下部の星、Twitterでいいね、RTしてくださるとケンロクエンが小躍りして喜びます!