汚泥の底日誌

文章力向上と自分の書きたいことを書き殴るためのブログです。

第66回 大人になるということ

常日頃からお世話になっております。

ケンロクエンです。

 

おかげさまで第66回です。

 

人は日々年月を重ねて大人になります。

肉体に関しては。

そんなフルオートで否応なく大人にされてしまう肉体の話ではなく、精神の話。

俺はというと趣味と言えば第一にゲーム、次いでアニメに漫画。

ここ数年はVtuberにどハマりと一般的に思い浮かべられる「大人」とは真逆、対極的なイメージだろう。

だが今やテレビで芸能人が臆面もなくゲーマー宣言をし、拙いながらもプロゲーマー制度が発足しeSportsも商業の悪い匂いをプンプンさせながらも一応は成長を見せている

 

アニメに関してもパチンコ、スロットの影響でそこらの若者よりもアニメを見ているおっさんも珍しくはない。

昔からジブリやディズニーなんかは許されていたが、君の名は辺りからアニメ映画を大人が見ることの世間への抵抗感もだいぶ薄れたように思う。

 

Vtuberに関してはそのカタチが形成されたのがここ2年位と新興のモノなので理解は薄いかもしれないが、YouTuberという枠組みだと見ている人は老若男女は問わない。

というかVtuberにせよYouTuberにせよ動画を見るということはあまりオープンにするようなことでもないので、それを趣味に持っていたからといって困ることもそうはないだろう。

 

では何故当事者たる俺自身がそれらを大人のイメージと違うと言ってしまうのか?

理由はこれら全てが子供の趣味でもおかしくないどころか、時間的制約が薄い子供の方が力を注げるからだと思っている。

 

子供の頃より熱をあげられないのなら、大人の、大人だからこその趣味とは到底言えまい。

大人、子供の共通の趣味であり、悪い意味で子供から脱却できていないとも言える。

 

じゃあそれらを大人な楽しみ方をすれば良いのか?

ソシャゲに大枚叩いて課金しまくるのは確かに大人故の楽しみ方だろう。

しかし、俺はまだ昔気質というか頭が硬いのか、やっぱり金をかけたらその分のリターンが欲しくなるのだ。

いくつかやってるソシャゲはほぼ全て無課金

唯一FGOだけは夏と正月の星5確定の時だけ課金しているが、課金してお目当てのキャラが出なかったら落胆のあまりやめてしまうかもしれない。

そして俺はソシャゲに 無課金でいいやつ引いて重課金者にマウント取りたい という歪んだ欲望を当て付けているので、今後も課金はできない。

 

買い切りのコンシューマーゲームにしたって大量に積みゲーをしてお金をズドン!といったやり方こそできるが、結局プレイできる時間が変わらないのだから積みゲーはしない。

アレやらなきゃ!?と精神的に焦った挙句、ストーリーが話半分で頭に残らないのは意味がないし、そういうやり方はクリエイターに失礼だ。

そもそも早く消化するためって趣味の本分がズレてしまっているような…。

 

そこで俺は考えた。

趣味以外で大人な楽しみ方ができるもの。

そもそも大人な楽しみ方とは?

大人とは…?

 

そこで1つの結論として、子供の頃やりたかったことをやっているのが大人なのだという結果にたどり着いた。

みんなはやっていますか?子供の頃やりたかったこと。やりたくてもやれなかったこと。

 

そして思いついたのが食事である。

 

食事に金をかけるのはまず間違いなく大人だろう。

なんせ子供には食事に対する選択権がほとんどない。

せいぜい親が何食べたいか聞いてきた時か、外食に行くときにお店のチョイスをするくらいだ。

そして食事にこだわるのはわりとコスパが悪い。

量にせよ質にせよ、ちょっとこだわると数千どころか数万円があっという間に飛んでいく。

そのくせ楽しい時間は数十分から数時間。

口に入れ、咀嚼し、飲み込むまでの時間で言ったらほんの数分あるかないかだ。

そしてそういったこだわった食事というのは往々にして体に悪い。

もちろん健康方面をして食事にこだわるというのももちろんあるのだが、食事に金かけた!と言って思い浮かぶのはどうしても体に悪いお金のかけ方だろう。

健康にお金をかけるというのは大人的というよりかは紳士、淑女的だと俺は思う。

アダルティーでなくジェントリーだ。

 

こうして俺は不経済で不健康、それでいて大人の権力もフル活用という食事をこだわってみたのだ。

実に退廃的、破滅主義者のようだ。

 

今回俺が買ったのは刺身だ。

それもスーパーの割引品。

 

不経済も不健康も退廃的も破滅主義者もかっ飛んだが恐れず聞いてほしい。

スーパーの刺身でも、いや、スーパーの刺身だからこそ子供にはできぬ、それどころか並の大人にもできないことがあると。

 

思い出してほしい、あなたの子供の頃を。

みなさんは自分の意思で刺身を買ったことがあるだろうか?

親と一緒に買い物に行って、今夜はお刺身!何がいい?といったことではない。

なんらかの事情で今夜は親がご飯を用意できない。

手元にあるお金で済まそう。

そんな時に刺身を選択肢に入れたことがある人は限りなく少ないのではないかと思う。

 

そして年を経て、自らで食事を用意するようになったとき、あなたはどんな刺身を買うだろうか?

1種類だが多めの刺身か、複数種類の盛り合わせか。

だが俺は柵を買う。

柵、いわゆる刺身用の切り身ブロック。

買った後に自分で切らなければならないせいか敬遠しがちな柵。

アレはなんでなんでしょうね?

肉も野菜も買ってから切るのに何故が柵だけ敬遠してしまう。

 

だが柵はいい。

同じ値段で普通の刺身パックより2〜3倍の量はいただけるし、刺身パックにありがちな えっ!?めっちゃ入ってんじゃーん! と思って食べようとしたら刺身の裏から質量保存の法則を無視したかのようにツマが出てくることも、べったり貼り付いてシソの匂いが移ってしまうことも、我が物顔で乗っかるたんぽぽ(食用菊)をどける必要もないのだ。

 

そんな柵を買ってきて、俺は

 

 

そのまま齧り付いた。

 

 

オーケィ。オーケィ。

キミの言いたいことはよくわかる。

俺もいざ文章化してみると自分の行動に戦慄している。

だが考えてほしい。

人はデカい肉塊に齧り付きたいという欲求を誰しも持っている。

デカいステーキに齧り付きたい。口いっぱいに頬張りたい。誰しもが一度は抱いたことのある感情だろう。

魚にしてもヤマメや鮎を串に刺して焚き火で焼き、それをシンプルに齧り付きたいと思ったことはないだろうか?

なのに生魚に関してはそういう話を聞かない。

なぜなら生魚を食べる=刺身という式が幼少期より刷り込まれているから。

 

思い出せ。原初の感情を。本能を。

 

もはや大人とか子供とかを飛び越えて原始人レベルまで脳が退行しているのですが、とにかくやるのだ。

柵をそのままお皿にビタン!

上から醤油をビャッとかけ!

いざ!実食!!


美味い。


そりゃそうだ。

そのまま刺身になれるほどのものを食えば美味いに決まっている。

しかし、強烈な違和感。

当然だ。

今まで生きてきて生魚なんてほぼ刺身くらいでしか食ったことない。

カルパッチョとかタタキとかあるけれど、そのどれもが薄くスライスされたものだった。

そこに生魚の肉塊というのは脳が追いつかない!


そしてスジ!

すげぇスジがあって食いづらい。

このスジの存在感たるや、それがいるだけで飲み込むタイミングを失うレベル。


巨大な違和感とスジのダブルアタックでもっちゃもっちゃと咀嚼を繰り返し、やっとこさ飲み込めるという段階で、あ、俺魚食ってる…。と脳が追いついてくる。


いやぁ刺身ってのはただ切ってるだけじゃなくてれっきとした料理なんですね。


かくして俺の大人チャレンジ、柵に齧り付きは苦い結果に終わりました。

そのビターな体験が、俺の背中に渋味を添えることを信じて!

ケンロクエンの次回の更新をお楽しみに!